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橋本努の音楽エッセイ 第7回「人類の最良の人々は不幸な人々と共にいる(ロマン・ロラン)

雑誌Actio 20101月号、23

 


 歯茎にできた嚢胞が、頭部の骨を溶かしている。そんなショッキングなことに気づかされたのは、去る九月のことだった。以来、膨張する化膿の痛みに悩まされ、ようやく手術のために3泊4日の入院を経て復帰したものの、一部の神経を切断したので感覚は麻痺。熱いとか冷たいとか、そういう感覚が一部感じられなくなってしまった。もう元には戻らない。慣れれば問題はないと主治医は言うのだが、この2か月のあまり、小生は余命に怯えてしまった。心電図をとれば、500人に1人のアノマリーと診断されもした。いったい、自分には後どれだけの時間が残されているのか。

そんなことが気になりはじめたときに救いとなった音楽は、ベートーヴェンの弦楽四重奏だった。30代前半にして難聴に襲われ、それ以降も困窮した生活からさまざまな病気が併発し、わずか57歳にして生涯を閉じた偉大な音楽家。その生涯を短い小説にまとめたロマン・ロランは、次のように書いている。「不幸な人々よ、あまり嘆くな。人類の最良の人々は不幸な人々と共にいるのだから。その人々の勇気によってわれわれ自身を養おうではないか」と。

 不幸なベートーヴェンは、晩年になって大曲のアイディアをいくつか温めていたが、金を稼がねばならないという要請から、もっぱら弦楽四重奏曲を書いて暮らしていた。交響曲第九を作曲する前後から、ベートーヴェンは死の直前までに、五つの室内楽作品を残している。その最後の作品で彼は、なぜこのような作品でなければならないのか、と自問する。金銭上の理由から、苦心して手にした決心である。「そうでなければならぬのか?」、「そうでなければならぬ」と楽章へメモを書きつける。私たちはこの苦渋の心境に、心を打たれるのである。

 そんなベートーヴェンの弦楽四重奏作品の全集録音が、2008年からミケランジェロ弦楽四重奏団によって企てられている(Michelangelo String Quartet, Ludwig van Beethoven, String Quartets Op.18 No.1&2)。いまのところ二つのCDが出ているが、最初の作品は弦楽四重奏の第1番と第2番。ベートーヴェンが最初の階段を登りつめて名声を得た30歳のころの作品である。これらの作品はまた、ちょうどベートーヴェンが難聴に襲われはじめた時期の作品でもあって、彼は次第に社交界から身を遠ざけていった。20代の後半、医学の修業に来ていたヴェーゲラーとともにプラトンを読む読書会に参加していたベートーヴェンは、当時、音楽で哲学的な思考を展開するという人間精神の新たな創造へと向かっていく。その成果たる作品は、批評家に「思考過剰」と批判されもしたが、現時点からみれば、これは時代を先取りした、あまりに優美な先駆的精神というべきであろう。

 ミケランジェロ四重奏団は、国際的に名声を博したソリストたちの集まりで、とくにヴィオラは、今世紀の最もすぐれた奏者の一人と言われる今井信子氏が務める。演奏のすばらしさは録音技術の革新によってさらに圧倒的な艶美をみせ、爆発的な力をもった作品は、演奏家たちによって完全に操られている。まさに演奏の芸術性が思考過剰を克服して、美しい世界を生み出すのだ。思考以上の世界に届くための、絶品であろう。